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快足登山考(燃えるアドナリンvol.1)

1994.7.25 芝 正人

 この度、7月25日(月)に開催された、富士登山競争に参加しました。休暇の限られた社会人にとって、快足登山を単なる山のトレーニングではなく、ひとつの登山スタイルとして皆様に理解してもらえばと思い、その効果、問題点を箇条書きで綴ってみました。内容が、独善的、偏向的になっているので、その点御容赦下さい。

* 富士登山競争について
よくご存じの方も多数いるかと思われますが、山梨県富士吉田市役所から吉田口登山道を経て富士山吉田口山頂までの高度差約3000m、水平距離約20kmを制限時間4時間30分で走り切らなければならない山岳レースです。皆様もぜひ参加してみて下さい。日本最高の山で目いっぱい走るわけですから、日頃のトレーニングの成果や高度に対する強さを図る絶好の機会であると思います。

* 登山の定義について
「そんなに急ぐと山が逃げるーよ」という歌があるように、軽装、軽装備で山を急いで行動する行為は登山ではないと思われる方もいるかと思われますが、では、どの様なスタイルの山登りを登山と呼ぶのでしょう。このことは一度、一杯飲みながら皆様と議論を戦わせたいところなのですが、結局、数学のパラドックスのようになり、結論は出ないと思います。要は、自分が登山を意識して主体的に山登りをしているかどうかが問題であって、他者が行為についてどのように受け止めるかはたいした問題ではないと思います。皆様はどのようにお考えですか。だが、その危険性については十分な議論は必要かと思いますが。

* 競争の原理について
 山を競争して登るなど、登山の主旨とは外れると憤慨される方もいられるかと思います。登山を通して自然から学び、花鳥風月を愛でることはとても大切なことであると私も思います。しかし、重い荷物を担いで山を歩くという行為が単調なだけにマンネリズムに陥る可能性も否定できません。何もそのために快足登山を提唱するわけではありませんが、トレーニングを重ねるにつれて、今まで見えていなかった可能性が生まれてくると思うのです。無理だと思っていたコースが行けるかもしれないに変わり、さらにトレーニングを重ねるにつれて行けるというようなー。富士登山競争は自分を判断する格好の材料です。一つの目標を通して新たな登山スタイル、山の姿が見えてくると思うのですが。

 山岳競争は、まだまだ社会的認知を受けていませんが、山というフィールドを通して力を競い合うのは、スポーツ登山という観点から見ると重要なことだと思います。特に、タイムレースは、誰が見ても納得できる競技であると思います。一度、兵庫県山岳連盟で、ボッカレースなど企画してはいかがでしょう。これならば、競争が苦手な登山者にも参加しやすいですし、別に、登攀、ヒマラヤを目指さなくても、力を発揮でき、スポーツマンシップを高陽できる場があってもよいのではないかと思います。また、登攀が禁止されている高校生も参加できますし、ランナー達の目も山に向けてもらう機会にもなると思うのですが。

 いずれも、私も年老いて、今のように元気に山へは行けなくなると思います。次世代の若い力と情熱のある若者がより多く登山に興味が持てる魅力のあるロマンのあるスポーツになればと願っているのですが、見果てぬ夢でしょうか。

* 快足登山の問題点
 富士登山競争に参加した2、3の人(全員、ランナー)に、もし、競技中に動けなかったらどうするつもりだと聞くと、自らの責任で競技に参加しているのだから、他人には、迷惑はかけない、這ってでも下山すると明快な答えが返ってきました。当然山を速く行動するわけであるから、様々な危険性があります。木の根っこにつまずいたり、岩で足をすべらせたり、ガレ場で足をひねったり、視野が狭くなる事によって道を間違う等、だが、ある程度まではトレーニングで克服できると思います。問題は、目的意識を持って、自ら山に登るのだから、自らの責任で降りてくる。他人には迷惑をかけない、自分に事ある時は這ってでも下山するという気持ちを常に持ち続けてトレーニングを行い、山に行くことが大事なのではないでしょうか。そうすれば、トレーニングを通して危機管理能力が養われ、事故を予防できると思われるのですが、この点は私もまだまだ経験不足ですので、皆様に教えてもらわねばなりません。色々と勝手なことばかり書きましたが、つまらない一人の男の戯語と思い御容赦ください。



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