「登山不適格者」(NHK出版)という本を読んで

「登山不適格者」(NHK出版)抜粋

岩崎元朗が記した「登山不適格者」(NHK出版)という本を読んで、私が共感した点を抜粋させて頂きます。岩崎元郎は「無名山塾」やNHKの趣味の講座の先生をしたり中高年登山者の教祖と思われておりますが、我々が参考文献として使う「日本登山体系」の編者の一人であり、雨飾山のフトンビシ岩峰群の開拓者であります。

以下は「登山不適格者」からの書き写しです。   岡島(記)

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山の会というのは、山好きな人たちで構成されているとはいえ、自分たちが登ることを最大の目的にしている団体なのである。登山スクールではない。知識や技術を教わることを目的に入会しようとするのは大きな間違いだ。

体力のない人、技術のない人は、申し訳ないが足手まといでしかない。経験豊かなベテランは、リーダーにはなってくれても、ガイド役を引き受けた訳ではない。一日くらいはゲレンデに同行してくれて、ロッククライミングの手ほどきをしてくれるかもしれない。が、それは山の会の先輩としての義務感であり、山仲間の友情から生まれた好意なのだ。

自分の体力は自分で鍛えよう、自分の技術は自分で磨こう。これが山の会の基本である。

「計画は人まかせ、自分は連れて行ってもらうだけ」といった、主体性のない登山者がいる。これは自分がテーマを持っていないから、計画に口出しができないということだ。他人の尻にくっついて、ただ連れて行かれるだけの登山を繰り返しているだけでは、十年一日、同じレベルにとどまっているしかない。

テーマを持っている登山者なら、今回はこの山をこう登りたい、次回はあの山でこんなことをしたいと、必ず欲求が出てくる。それが計画にも反映されてくるから、結果として場当たり的な登山を繰り返すことにはならない。そして、なによりも自分で決めて山に登るという主体性と責任感とが養われてくる。

いつまでも他人の計画に「タダ乗り」していたのでは、登山者としてのレベルは最低ラインのままである。

プランができ上がったら登山計画書を作成すること。これは登山者の義務に等しい。山岳会に所属していれば、登山計画書を確認することで、その計画がメンバーにとって実力相応なものかどうかをチェックされる。言ってみれば、登山計画書は「山へのパスポート」である。

登山計画書をつくるということは、メンバーが情報を確実に共有できるというメリットもある。装備や食料を分担して持ち込む場合、それが書面上に明記されていれば、余計なミスは未然に防ぐことができる。

厳密な定義があるわけではないが、一般的には「遭難対策も含めて組織運営が確立している集団」を山岳会と呼び、「山岳会ほどは組織運営が確立されていない登山愛好家の集まり」をグループと称することが多い。と言っても、中にはいい加減な山岳会もあるし、一方では素晴らしいグループもある。

山での事故の対処法は、ベストは自分たちのパーティーで解決することだ。それが「セルフレスキュー」という考え方だ。

山での事故はないに越したことはないが、事故の危険が100パーセントない登山などありえない。登山者は、セルフレスキューの習得ということについて、もっと切実に必要性を感じなければならないと僕は思う。

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以上、岩崎元郎の文章を紹介しました。登山に対する基本的な姿勢であると思います。

ついでに、山際淳司「みんな山が大好きだった」(中公文庫)という本での、アルピニズムについての表現を紹介します。この本は、加藤保男、森田勝、長谷川恒夫らのドキュメントです。

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死と格闘することを前提にして山に赴く男たちがいる。尖鋭的アルピニストと、呼んでおこう。

彼らはもちろん、死のうと思って山に行くわけではない。あらゆるケースを想定し、それを乗り越えられる体力、知力、技術があると信ずるから出かけていくのだ。しかし、それでも死とすれすれの関係になることを知っている。

アルピニズムとは、山においてより多くの困難を自ら引き受け、それを乗り越えていくという姿勢を意味している。尖鋭的アルピニストであればあるほど、生と死のきわどいつり橋を渡ることになる。死を意識せずにはいられない。死はいつも彼らのすぐ隣にいるのだ。それを承知で、一部のアルピニストたちは雪煙を求めて氷壁に立ち向かっていく。

彼らは、いわば死に対する確信犯である。彼らに対しても、死は突然やってくるが、しかしそれは偶然ではない。なかば必然的にやってくる死である。尖鋭的アルピニストたちはそれを知っている。知りつつなお、死の領域に足を踏み入れてしまうのだ。生と死が紙一重で交差している領域が、彼らにとっては限りなく魅力的であるからだろう。