モンブラン山とエルブルース山 登山

山行日2015年8月9日-9月3日
山域、ルートモンブラン山とエルブルース山
山行形態登山
メンバーアライ

モンブラン山とエルブルース山 登山 山行記録

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こんにちは。新人のアライです。
日本の山での経験もままならないにもかかわらず
生意気にもモンブランとエルブルースに登頂させて頂きました。
書きつけた日記を載せます。

8/12 晴れ

夕方、モンブラン登山の拠点の町、フランス・シャモニに着いた。

ここから望むヨーロッパアルプスの岩峰は鋭く険しく、日本の槍ヶ岳を何峰もくっつけた様で、そうかと思えば、まるでケーキをナイフで切り開いたかのように平らな岩壁も鎮座しており、そこに白く輝く雪が何本もの列をなしている。その神々しさたるや、霞みがかる雲さえもが美しく映るほどだ。

中華料理店の店主が夜ならウチの店のテラスにテントを張っても良いと言ってくれたのでお言葉に甘えることにした。

随分と登山用品店やレストランが立ち並び賑わいを見せる街並みは、40数余年前に植村直己さんが見たシャモニと変わらないのだろうか、少なくとも町から望むモンブランの燦然たる眺めだけは今も変わっていないだろう。
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8/13 雨

暇なので日記をつけるのが唯一の楽しみ。キャンプ場にてバナナをむさぼりながら書いている。
天気予報によると向こう一週間雨。
それに加え、7月の酷暑により落石が多発しノーマルルートが閉鎖されているそう。進退極まったが、自分の目で確認する前に人に言われただけで諦める事があるだろうか。

僕の心を奮い立たせたのはハングリー精神、ではなく植村直己さんの「諦めないこと。どんな事態に直面しても諦めないこと」という言葉だった。

8/14 勢いを増す雨

ついにモンブランの銀嶺は雨に姿を隠した。
何かを思い付き、ザックの中をゴソゴソと探っているうちに、自分が何を探しているのかを忘れてしまい、ただただ意気消沈する。

何度見た所で変わらない天気予報とのにらめっこが続く。

8/16 雨 キャンプ場

居てもたってもいられずついに3300mテートルース小屋まで足を運んだ。
そしたらどうだ、町での「今シーズンは危険すぎて一人もクライマーは登っていない」という情報に反しクライマーがちらほら居るではないか。
やはり何事も自分の目で確認するべきだ

話を聞いたところ、夜明け前の気温が低い時間帯を狙えば落石が少ないとのこと。

8/17 テートルース小屋 晴れ

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徐々に白む明け空。息が白い。気温が低い証拠だろう。空に雲はない。
他のパーティーの後ろをストーカーのように追いかけるようにして、キレットのような岩稜を登りついにグーテ小屋3800mまで上がった。
この小屋は今年閉鎖されているのでさらに4300mヴァロ避難小屋まで一面雪の稜線を他パーティーとラッセルを替わりながら進む。
左手にはエギーユ・デュ・ミディの岩峰が凛々しくも絵のように景色している。
既に雲海は眼下。

前を歩いていたイタリア人が目の前から消えた。
見ると足下の雪がストンと抜けてクレバスに落ちていた。
幸い小さいクレバスだったので容易に脱出できたいた。

高山病で、頭が痛い。イタリア組が良いペースで登っているのが不思議なほど。
正午、間があきながらもついにヴァロ避難小屋についた。午後からは天気が崩れる。
イタリア組はシュラフを持っておらず「我々はここまでだ、シンゴ、グッドラック!」と言って僕と握手を交わすとそそくさと降りていってしまった。

一人で明かす4300mの夜は少し、いやかなり心細かったが日記や読書、壊れてしまって火が起こせなくなったバーナーの修理などをして気を紛らわした。
バーナーが直り、もう生野菜をポリポリかじらなくて良いのだと思うと少し嬉しかった。既に外はガスにおおわれてホワイトアウトしている。

本を読んでいると「楽しいだけだと思った?」と植村直己さんに諭されている気がした。

夕方5時、外から声がする。人だ。
僕は主人の帰りをを待ち望んだ犬の様に小屋から飛び出した。
聞くと、ウクライナから来て、今晩はここで寝るらしい。
僕は嬉しくなってその時調理していた夕飯を食べさせてあげてしまった。
二人は英語が出来ない為ボディランゲージでコミュニケーションをとった。
山の話で盛り上がり、場所を説明するのにヘルメットを2つ重ねて地球を作ったりした。
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8/18 晴れ 朝4時

ウクライナ二人は4時に起きると言っていたのにグースカいびきをかいて寝ている。一人で朝食を作る。
外は風でゴーゴーとうねりを上げ、まるで新幹線に乗っているよう。
7時に3人で出発。雪は良好でアイゼンが良く効く。ウェハースを踏むようとは良く言ったもの。

そしてついにやった。4800m、3人でヨーロッパアルプスのてっぺんに立った。

二人はウクライナ国旗を広げて喜んでいる。

帰りはガスにおおわれて、5m先を歩く人間がうっすらみえるだけでそれ以外はどこを見ても真っ白。トレースだけが頼りだった。

落石多発地帯では目の前でゴロゴロと車が走る様な音をたてて登山靴ほどの石が目の前を落ちていった。否が応にも緊張する。しかし僕が通るときは小石一つの落ちてこず、拍子抜けだった。
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面白かったのはポーランドから来た9人の男女混成パーティーだった。
真面目にそそくさと登る僕とは対照的に「楽しくいこうぜぇ~」といった具合にガヤガヤ談笑しながらゆっくり登っている。
いち早く4300mの避難小屋まで上がり、孤独に打ち勝ち一人で夜を明かすとも覚悟しながら天気をまつ僕
「楽しくいこうぜぇ~」といった感じで毎日少しずつ僕に近づくポーランド隊
ついにアタック日に僕より30分ほど早く出発し頂上に先に立っていた。
くだりも「楽しくいこうぜぇ~」っていったかんじで動画など撮りながら下るからポーランド隊を先頭に数メートル渋滞ができた。

8/19 シャモニの町

雪を溶かした黄ばんだ水しか飲んでなかったので今日、町でコーラを飲んだら、脳ミソに新鮮な刺激が走って5秒くらい真顔でフリーズした。

8/20 スイスへ向け移動 晴れ

電車は切り立った斜面にへばりつくように走り、いくつもの小さいトンネルをくぐり、アルプスの渓谷を縫っている。
左手には青く高く抜けた空と白い雪、それにそそりたつ岩峰。
右手にはヤギが草を歯み、牧羊犬が緑の丘を走り回っている。
「口笛はナゼ遠くまで聴こえるの♪」という歌詞がアルプスの少女ハイジならぬ少年シンゴの頭の中で流れている。
教えてくれるおじいさんは居なかったが乗り換えを車掌さんは教えてくれた。

8/21 晴れ マッターホルン

マッターホルンの頂上を目指したがヘルンリ小屋から30分ほど登ったところで雪のコンディションが悪く単独では危険と判断して懸垂をして、町のキャンプ場まで撤退した。
たとえ100人が登れると言っても、自分が危ないと思ったら登らない。これでいいんだと思う。

8/23

マッターホルンのヘルンリ小屋で知り合った日本人と二日ほど一緒に旅をしている。二人でチューリヒのクライミングジムに行った所、店員さんたちに「今晩はBBQするから良かったら来い」と言われたのでご相伴に与かった。
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8/24

次なる山エルブルース5642mに登るべくすぐにロシアへ向かうつもりだったが30日までその山の天気が崩れるとの予報を受け、その間イタリアを観光してやろうと思いベネチアを訪れた。(ここでの物価の高さが災いして後々ロシアで苦労する)

一泊15ユーロ安宿は男女混合の相部屋だがそれがまた良かった。しばしば多国間の井戸端会議が開催され景色なんかよりもそのコミュニケーションが楽しい。翌朝、相部屋だったイタリア人の女の子と二人で観光に出かけたことを携帯で友人に伝えると皆口を揃えて「さぞ楽しい夜をお過ごしになった事でしょう」と言いやがる。よくもまあこんな人間ばかりで日本はもっているなあと思った。この時ばかりは「類は友を呼ぶ」という言葉を信じたくなかった。

8/27

LCCでロシアへ飛んだ。ブダペストの空港でのトランジットが夜をまたぐため、ぼくも他の乗客の見よう見まねで空港の空いたスペースに寝っころがった。要領のいい人間はクッション性の良い椅子を確保している。僕の背中には厳選された山道具が詰まっており、シュラフを取出し廊下の隅で快眠した。貴重品は小さいバッグに入れ体に巻きつけておいた。

モスクワではスーパーマーケットでさえ空港の保安検査のような金属探知のゲートがあり驚いた。

ロシア名物のマヨネーズやブロッコリーをかごに入れレジへ並んだ。中年太りしたレジのおばちゃんはガムを噛みながらこっちを見ている。なんだろう、どちらかというと野原で牛と目があったような感覚に近い。ふと「日本のスーパーにこんな態度のレジ打ちがいたら」と考えると笑ってしまった。

8月27日 深夜12時 ロシア・テレスコル

フロントガラスにヒビが入ったオンボロ車は、寝静まった深夜のテレスコルにそのエンジンを休めた。エルブルース登山拠点の小さな町だ。活気あふれるシャモニとは打って変わったこのどこか静けさが、より気温をより寒く感じさせた。

ドライバーは少し疲れているように見えた。
後から聞いた話だが、僕がシートベルトをしていなかった為、僕が寝ている間にドライバーは検問で1000ルーブル徴収されていたらしい。
にもかかわらず「スパシーバ(ありがとう!)」と満面の笑みで握手を求めた物だから恥ずかしい。

モスクワから飛行機で2時間ほど南下したところに位置するミンボディ空港からディマという名前のロシア人のハイカーとタクシーを乗合してここまで来たのだ。
途中ドライバーはディマとの会話に息づまるとクッション役として「シン!(シンゴ)兄弟はいるか?」と、後ろでザックにもたれ掛って寝る僕に話のパスを出してくるのでなかなか寝られなかった。

28日

この日、うすうす気づいていた重大な問題にいよいよ直面した。モンブランの後、物価の高い西ヨーロッパの観光にうつつを抜かしていた僕はこの時点で手持ちのキャッシュをほぼ使い果たしていた。クレジットカードでキャッシングができるだろうとタカをくくっていたのだが、カード会社に電話して問い合わせたところ僕のカードではキャッシングできないし可能にするには手続きに一週間かかると言われた。その返事は僕の全所持金が1000ルーブル(1800円)になることを意味していた。これではせいぜい帰りのバス代ほどである。人間というのは簡単なものでそうとわかると、日本がはるか遠くのように、エルブルース山が3000mほど隆起したように感じられた。しっぽを巻いて帰るしかないのかと本気で思った。タクシーを乗合したディマはそんな僕を気遣い、「僕には多すぎるから」と言って嫌な顔一つせずに朝昼晩のご飯を分けてくれた。恥ずかしくてこんなこと親にも言えなかった。そんな時僕の頭の中でふと蘇った植村直己さんの「いいかい、君たちはやろうと思えば何でもできる。」という言葉が僕を日本には返してくれなかった。いくつもの逆境を自分の力で切り抜けた植村さんの言葉には力があり、説得力があった。

「たとえ一度日本に帰ったとしても、また登りにとんぼ返りしてくる」といった私を見兼ねて、ディマは自分の財布の中から無理して僕にお金を貸してくれた。「絶対登ってやる!」と叫んだ。

29日

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昨晩レストランで出たパンをポケットに入れて持ち帰っていたのにマヨネーズを塗って朝ごはんにした。
ディマに気を使わせないよう部屋でこっそり食べた。

リフトの発着場のアザウまで歩いていると僕の横を一台の車が通りすぎた後、バックで私のもとへ下がってきた。窓が開いた。小太りのおじさんが中から笑顔で、「乗れ!」と言わんばかりに親指を後ろへ振っている。「僕はお金を持っていない」とジェスチャーすると、「かまわん!」と言わんばかりだ。スパシーバと言って乗り込んだ、英語で話しかけても、何処吹く風と言った感じだったのでザックの中から、日本から印刷してきたロシア語帳を取り出し、「ぼくの名前はシンゴです」とやった。
するとそれまでフリーズしたようだったのが電波を得たかのように会話になった。そしてアザウで降ろしてくれた。

最初のリフトにのり3500mまで上がったがそこからさらに上がるには200ルーブルかかると言われたのでバカらしくなり砂利道を自分の足でのぼった。そのままバレルス小屋(3800m)を通過しプリュート小屋(4150m)についた。途中クレバス(氷河の裂け目)もその口を開けていたが飛び越した。
ここの食堂小屋に山というほどパンが置いていたので人目を盗んで、口に入れた。

この山は、急峻な岩峰に雪がしがみついた様なスイスのアルプスとは一転して、東と西の2つのピークめがけて続くなだらかな斜面に雪が覆い被さっている。ちょうど両膝を立てて上から布団をかけた様で、その上の濃い青空は、色合いで言うと明治ブルガリアヨーグルトと瓜二つだった。
今夜はこの小屋に泊まった。

30日 高度順応日

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小屋に居合わせたガイドが、他のソロクライマーを紹介してくれた。
とりあえず今日はこのウラジーミルという男と一緒に高度順応の為に5000m地点までを往復した。
彼は僕と会うなり挨拶もままならぬまま「君の経験は?」などと無骨に聞いてきたし登るペースも遅かった。

その日の夕方、僕は彼に「今晩アタックをかけよう。」と持ち寄った。天気が明後日まで持つかわからなかったからだ。
彼は少し間をあけて僕にいった。「オフにすべき。」
「じゃあ僕ひとりで登るし君は明後日に一人で登りなよ」
すると彼は
「パートナーが居ないと危なくて登れない、シンゴが明日登るなら俺は下山する」といってはばからなかった。
彼にも登頂してもらいたかったし、でも今晩にアタックもかけたかった。
「天気が明後日までもつかわからないし、それに」と言いかけた所で「分かった分かったよ、もう」と言って僕の意見を聞いてくれなかった。そして彼は下山した。
僕は自分が間違っているとは思わなかったし、結局彼が言っていた日は風が強く登頂断念者が続出したそうだ。

僕たちは互いに一人で入山し、僕は一人でも登るつもりだったしその準備もしていた、しかしウラジーミルはハナからパートナーを見つけるつもりで何かあったらパートナーに助けてもらおうと他力本願な所があった。
もちろん二人以上で登るほうが安全だ。でもそれは何かあったら自分の命は自分で守るという強い意志とスキルを身に付けた二人であるべきだとおもう。だから、彼は下りて正解だったと思った。

僕は入念にストレッチをして19時にベッドに入った。
体は疲れているはずだし高山病の兆候は何一つ無かったのに寝付けなかった。

頭のなかで不安と期待がぐちゃぐちゃに混ざり合い、それが一つの不調和な色になって僕の心に塗り散らかっていたんだろう。

31日 深夜 アタック

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少しウトウトして時計を見ると2時10分。
モスクワのスーパーで買ってきたカップ麺にソーセージを入れ、それと一緒にロシア人のおっちゃんにもらったパンを口に放り込んだ。僕が目が合う度に挨拶するものだからおっちゃんはよく食べ物をわけてくれていた。

少しでも体を軽くしようと思い気休めにしかならないだろうがウンチもしておいた。トイレットペーパーは使い果たしていたので野口健さん著の本の白紙の部分をちぎって、お尻を拭いた。なんとかギリギリ本文のページだけが残った。

3時20分

ザックと満月の星空を背中に、アイゼンで雪を踏みしめた。

良いペースで他のクライマーをグイグイ抜かし最初の一時間で450mほど高度を上げた。よほど一週間前に登ったモンブランが順応になっているのだろう。このままどこまででもいけそうな調子だった。

途中唯一僕を抜かしたのは、有料で乗車できる雪上車だけだった。5000m近くまであがる雪上車には「ずるい!」と思ったがあわよくば自分も乗りたいという気持ちがあるからこそ、ずるい!と思うのだと思い未熟さを反省した。徐々に火照る体と、熱を奪い去る風とのバランスが調度いい。写真を撮るときにグローブを片方飛ばされてしまった。かじかんだ指は股間に手を突っ込んで暖めた。ラグビー部で培った手段だ。

5時30分

徐々に空が赤らみ、東面を赤く染められたコーカサスの峰々が美しかった。
いよいよ空気も薄くなってきて数十歩すすんではハァハァと息を切らし立ち止まらずにはいられなくなった。

朝8時

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西と東の頂上との谷間になっているコルへ出た。より高い方の西の頂上へ向け登りだすといよいよその頂上がこの目に見飛び込んできた。「あそこまでいったらもうこれ以上、登らなくていいんだ」と思った。

その時 前に居てスノーボードを担いでいた若いクライマーが少しなまった英語で話しかけてきた。
「あれ?一週間くらい前モンブランに居なかった?」
「居たけど?」
「君の帽子が特徴的で覚えてる、その時俺も居たんだよ!」と。
まさかここでポーランドからの9人パーティのうちの一人と再会するとは!

10時過ぎ

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5600m、ヨーロッパ大陸の上で一番高い場所。そこにこの足で立った。

ポーランド再会男は「You should be here!」と書かれた面白い旗をを手に写真を撮っている。「それ良いね!貸してよ!」と言って借りた。僕より少し遅れて登頂してきたロシア人の、ご飯を分けてくれたおっちゃん達も写真を撮っている。ポーランド男は「俺は時間が無いからそこへ割り込んで旗を広げろ!」と強く言って来たが、言葉も通じない僕にご飯をご馳走してくれたおっちゃん達に対して割り込んで写真を撮るなど、そんな無下な真似はとても出来なかった。

「割り込め」「できない」の押し問答が続き結局僕は「分かった、じゃあこの旗は返すから先に降りなよ」と言い、奇跡の再会は半ば喧嘩別れとなった。

くだりというのは、持参したプラスチックの簡易スコップを尻に敷いて斜面をバウンドしながら滑り一時間ほどでプリュート小屋までおりてしまった。

この日をオフにしていたガイド衆は僕を昼食に招いてくれた
「いただきます」の意味を教えるととても良い発音で「いただきます」と言うので、あまりの発音の良さにご飯を吹き出してしまった。言葉の教え合いの交流はいつも楽しかった。
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昼食をそこで済ませ、その足でテレスコルまで下り、さらにバスで飛行場のミンボディまで移動した。
これがくせ者。
結局山よりも何よりも一番恐かったのはこのバスだった。

片側一車線の山道を運転手は気が狂ったかのようにスピードを出すので、何度も体はフワッと浮く感覚を覚え、生きた心地がしなかった。よっぽど、山用のヘルメットを被ろうかと思ったくらいフロントガラスを固唾をのんで見守った。

僕はスピード違反で3回捕まり免許取消になっているがこの時ばかりは警察にもっと取り締まってほしいと思った。

他の乗客は皆、地元のロシア人だった。イギリス、アメリカといった人たちのモアイ像のようにほりが深い顔とはまた少し違いアジア人にも似た面影があった。衣装もモンゴル系と混ざってアラビックな雰囲気を醸し出していた。

9月3日

シベリア鉄道に乗って日本まで帰ります!!とみんなに大見栄を切っていたのに「はやく日本に帰りたい、一週間も鉄道に乗ってられるか」という心境に変わっていた。そこへ来てアエロフロートロシア航空の日本まで4万円という安さが加わり、結局一日で日本まで飛行機で帰ってしまった。

3キロほど体重が落ちた僕は、町にでていきなり、やれ肉だ魚だフルーツだと栄養のあるものばかり口にしたのが逆に良くなかった。
今までジャガイモにマヨネーズだった僕の体のバイオリズムが崩れた。
お尻からは赤い下痢が止まらず、鼻は日焼けと相まって赤く腫れ上がった。
旅にでて以来最初の風邪が今日だった。

結局僕は登った時こそは一人だったけれども、それを支える広いすそ野を作ってくれた周りの方々なくして登頂はなかった。
実際に山に入って登る時だけが登山なのではなく、それに至るまでに数々の準備や、さらにはキャラバンを組んだといってもおかしくないほど受けたサポート。
僕はそこのあらゆる人のつながりを含めたものを“登山”と呼ぶのだと学んだ。

若くて経験もない僕がこんなことを言うのは生意気だと思う。一人の若僧が何か騒いでいやがるなぁ、といった程度でいい。読んでもらえて本当に嬉しく思います。

フランスに入った初日の日記

8/10 フランス パリ

飛行機で隣の席になったフランス人のボリスの家に泊めて貰えることになった。
ところまでは良かったのだがその夜、 お姉さんお母さん方によって夜遅くまでフランス語をミッチリ叩き込まれるとまでは予想できなかった。さらには夕食にてチーズ攻めに遭い、嬉し苦しくも涙目になりながら口へ放り込んだ。
ボリスの家はベルサイユ宮殿の目と鼻の先に位置したアパートでお姉さんと両親と暮らしている。
日本への移住が決まっているボリスの部屋には日本の絵が飾っており、中でも「誤解は嫌だ。 ボリス・エルゴユン」と書かれた習字には思わず吹き出しそうになった。
お姉さんは英語の代わりにスペイン語が喋れたのでしばしばフランス語とスペイン語をちゃんぽんして話しかけてきて僕をポカンとさせた。
僕も例になぞらえて「アイ エスカラデ モンブラン ソロ」とちゃんぽんして答えると、一人で登るの?と、目を丸くして驚いていた。僕が「ボニータ!(美しい)」と言って褒めると喜んでいた。皿一面に広げられた白や黄色に緑のチーズたちに自慢げなお父さんの表情。食事は人と人の距離を近づける手段でもあると考えた僕は「こんなにチーズだけ食えるか」などとは口が裂けても言えなかった。中でも異彩を放つブルーチーズとやらは白い身の中にワカメにも似た緑色のカビ?がちりばんでいて味は見た目通りだった。しかしお母さんは明らかに僕の口から「セボン(good)」という言葉が出るのを期待した眼差しを向けており、それに応えるようにして平らげたのだが、ボリスが「僕は嫌いだから食べないよ」と言ったとき僕は初めて人に対して、殴ってやろうかと思った。しかし良かったところは朝も昼も晩もコーヒーにありつくことが出来、ついには小便からコーヒーの香りがするようになった。

食事の後、何気ない会話からいつしかフランス語講座に変わっており右に姉、左に母といったネイティブ講師たちによる圧迫授業を受けた。フランス語において数字は日本と少し違い周期が不規則になっていてこれがまた難しかった。僕が見事正解するとトレビアン!と言って喜ぶのだが、不正解しようものなら容赦なくヒートアップし授業がより一層熱を帯びだしてしまうので、人生で一番と言っていいほど集中した。

僕はボリスにとても感謝している。ボリスの部屋に僕の愛読書 植村直己著「青春を山にかけて」を置いて行った。